濱口竜介監督、カンヌ国際映画祭で岡本多緒氏が最優秀女優賞を獲得した映画「急に具合が悪くなる」の原作本を読みました。映画は観に行く機会がなかったのですが、非常に評判も良くロングランになっていた様です。原作本は哲学者宮野真生子氏と人類学者磯野真穂氏の往復書簡10編をまとめた内容になっていて、乳がんの転移が進んで余命を考えざるを得なくなった宮野氏の哲学的思考を磯野氏が人類学的知識も踏まえて引き出してゆくやり取りの形で書簡が進んで行きます。
映画は原作本にインスパイアされた濱口監督がフランスの介護施設で理想を持って経営する女性(マリー)と「がんで余命が限られた演劇演出家」真理との邂逅と交流を描いた作品ですが、原作も二人の偶然にも似た出会いとその後の交流による互いの思考を深めてゆく様子が収められています。
〇「急に具合が悪くなる」とはどのような意味?
著者は患者の立場から記している事はもちろんですが、私の方はどうしても医師の立場からの解釈になります。医師の石飛幸三氏は死には3種類あって(死の三態)、突然死、がん死(終わりが見える死)、自然死(老衰など終わりが見えない死)に分かれると説明しました。突然死は本人も気が付かないうちに突然やってくる事故や心臓死などで、死への備えはありません。がん死は時期の特定はできなくても予測がつく期間内の死として本人は心構えができます。自然死(老衰や痴呆)は本人の心構えは曖昧ですが、周りは備えます。肉体はあっても魂が抜けた状態を「呆」と言いますが、痴呆はその人の肉体は残っていても本来の魂(複数あるとも言われる)の一部が既に無くなった状態と言えるでしょう。驚いたりして一瞬我を忘れる事を「魂消る(たまげる)」と言いますが、肉体を残して一瞬魂が消えるほどの驚きだという事です。

石飛氏の主張は、大事なことは突然死以外の終わりが見える、或いは見えない死であっても「死が訪れるその時まではその人の人生が続く」のであって、その人(患者)の望む人生が続けられるように助けることが医療者や介護者の役割である、という思想です。これはホスピスや高齢者施設など終末期医療・介護を担う上で非常に重要な心構えと思います。
自然に魂が少しずつ抜けてゆく「呆」の状態では余り問題にならないかも知れませんが、明確に終末を認識できる「がん死」においては、得てして「病期の段階」の認識に応じて「健康人の人生」から「病人の人生」にシフトチェンジして行く事が自然の様に感ずる事が多いものです。また家族や周囲の人たちも当人の病気を認識した付き合い方をする事が多くなります。
しかし著者の宮野真生子氏は「健常人の人生」「病人の人生」「死」という移り変わりに強烈な違和感・嫌悪感を覚えます。そして「健常人の人生」「病気は認識しても健常人の人生」「急に具合が悪くなって死」という方が「死が訪れるその時まではその人の人生が続く」生き方になると考えたのだと思います。
この「病気は認識しても健常人の人生」とはどういうものかを哲学者としての模索としてがん患者である宮野氏が行い、それを見つめる周囲のヒトの在り方を人類学的に磯野氏が考察するというやり取りが交わされます。その意味である程度結論が煮詰まった8編以降のやり取りよりもそれまでのやり取りに二人の試行錯誤が感じられて非常に興味深い往復書簡であると感じました。
病気になったことを偶然とみるか必然とみるかで「病人の人生を送る」必然に繋がるかといった宮野氏が専門とする九鬼周造哲学の考察も興味深いのですが、どのような選択を本人がしてもそこに偶然の要素が入るので完全な必然ではありえない、しかし偶然は偶然として楽しく受け入れると言うあたりに「急に具合が悪くなる」のは何時かわからないが、その時はその時で受け入れるとして「それまでは病人という型にはめずに自分らしく生きよう」という心意気が伝わってくる感じです。
二人の書簡の往復は「硬い内容」の連続の様に見えますが、実際のラインを含めたやり取りは後書きにあるようにもっと日常的な内容を含む砕けた内容で、そのエッセンスを2か月の間に交わした往復書簡の形でまとめたものと言えます。確かにこの内容のやり取りだけでは息が詰まる感じです。しかし宮野氏が乳がんを患っていたのは9年前からという事なので、ほぼ最後の2か月をかけて「いかに急に具合が悪くなる生き方」を続けるかを考察し合ったというのはかなり最後の最後まで自由に生きた様に見えます。病悩期間が長いという事は、実際のところ病気とどう付き会うかをずっと思索してきた結果をこの2か月に集約し、磯野氏という相棒を得て書籍の形まで飛躍できたという事でしょう。そう考えると磯野氏との出会いを含めてタイミングや選択の全てが九鬼哲学の彼女なりの集大成に至ったという事かもしれません。
〇 日本人の死生観と仏教
ここからは本書からはずれた論考になります。常々医師として終末期医療を考える上で、日本人の死生観と仏教的な考え方というのは深い関連があるのではないかと思っています。そうは言いながらも日常生活において、お寺にお参りには行くけれども、仏教というものを本当に理解しているかというと本当の所は理解していないとも言えます。白鳥春彦氏の「仏教超入門」ディスカヴァー携書203(2018年刊)に仏教について解り易い解説があり、死生観を考える上でも参考になりました。
〇 魂魄、輪廻の思想と仏教
日本人は死生一体、死んでも魂は肉体(魄)から離れはしても消滅することはない、と考えていることは玄侑宗久氏の不二と両行(死生などを二つに分けない、矛盾する二つの物をどちらも活かす)(日本人のこころのかたち角川SSC)という日本人的な考え方につながっている所で紹介しました。

この魂と肉体という概念は儒教や道教から来るもので、本来仏教の基本的な考え方ではありません。仏教では「死」も「生」も全ては「空」である、というのが正しい解釈で存在としての魂といったものを特別重要視していないと思われます。「空」といっても存在が無い「無」という物とは異なり、過去から未来にかけての現在の刹那はそれぞれの縁起によって実際に起こっているけれどもそれを「ある」とか「ない」とかで定義付けして拘ることをしない、と言う意味の「空」という考え方のようです。

葬式において、仏教は切っても切れない宗教ですが、先祖を祀る事も、死者を弔う事も、実はあまり仏教の神髄とは関係がないということが解ります。日本古来の神道においては、墓さえないのですから、仏教は日本に渡来してから今までの変遷において、江戸期の人別帳代わりの檀家制度などを通じて日本人の生活の中にあまり細かい教義を押し付けないでうまく溶け込んで来たのだろうと思います。
〇 死を一段上のステージとみなす日本人
日本人は亡くなった人を「仏さん」と言い、死ぬ事を「成仏」と表現します。
仏教では「仏」とは悟りを開いた人を指す言葉であり、釈迦のみを指す訳ではありません。本来修行中の菩薩から悟りを開いた如来になって「仏」になるのですから、死んだだけで「仏」になれる日本人はかなり優遇されていると言えます。「迷わず成仏してくれ」というのは「お化けになって出てくるな」という意味ではなく「あの世で悟りを開いて仏に成って下さい」という意味です。英語では遺体は単に「body」と表現されますから、戦争で亡くなった敵でも「仏さん」と言って敬う日本の心はかなり優しいと思います。Shootingゲームの世界でも外国語版では飛行機を撃墜すると”He goes to hell!!”(地獄行きだぜ)とテロップが出ますが、日本語は「お陀仏だ」(悟りを開いた)となります。日本においても神道では死を「穢れ」とする習慣があって、清め塩などに名残がありますが、いつの頃からか、死者は現世の人間よりも敬うと言う方向に変わって来たと言えます。
〇 終末期医療と仏教
死は容易には受け入れ難い恐怖でありますが、日本的仏教の考え方で、全ての苦から悟りを開いて「仏」になる、しかも魂は生き続ける、となると必ずしも絶対に忌避すべき物、怖いものではなくなるように思います。仏教においても自死・自殺は周囲との「縁起」を自ら絶つ行為であり、悟りとは結びつかないとして認められていませんが、与えられた生を全うした末に「仏」になるのであれば、「修行が足りない」人生であっても悟りの度合いはどうあれ許される物かも知れません。その意味で成仏を迷わせるような医療を終末期に行うことは医師として避けたい、安らかに人生の終末を迎える上で役に立つ医療を行いたい(具体的に表現するのは難しいですが)ものだと思います。
